やっと今週が終わった。長い長い一週間だったように思えるよ。
さて、今日の話。
昨日から一転して今日起きた時は理性が保たれていて、怒りは消えていた。
しかし朝起きると同時に激しい頭痛に襲われる。
おそらくだけど、寝ているときでも脳は活発に活動していたのだろう。
朝からバファリンを飲んで仕事に出かけた。
朝の通勤途中で考える。
「仕事の場合、お客様第一という絶対的原則がある」
「私の好きな物理も"物の理"とかく」
「であれば、人の理とはなんだ?」
そう、絶対的原則があるからこそその原則にのっとることでまとまる。
人の理とはなにか。
少し考えてみた。
例えば、大きなコップに水が入っているとする。
具体的な数字を付けるとすればMAX10リットル。
この10リットルは半分に分かれる。
5リットルは自分のため。
残り5リットルは人のため。
自分に余裕があるときは水位は5リットルを超えている。
つまり自分を満たしかつ自分に余裕がある。
その余裕を人のために使う。
さて、今回のように自分に余裕がなくなった場合、
すなわち水位が5リットルを下回った場合、
当然人のためという考え方はなく、
なんとか水位を保ち自分を守ろうとするだろう。
この、自分と人の境目をデットラインと呼んでおこう。
デットラインを下回った水位を元に戻すためには2通りある。
1つはデットラインまで水を入れること、
すなわち他で補うということだ。そう、私が怒りで補ったように。
もう1つはデットラインそのものを下げること。
そう、それは私がすべてのものに興味がなくなったように。
これが、人の理か?と思いながら仕事場につく。
今日は仕事はできた。
続きはまだある。
夜、会社の中で最も信頼できる人に相談をしてみた。
この人はコミュニケーションのスペシャリストだから
何か答えが返ってくると思ったからだ。
"人の理ってなんですか?"
"そんなものはない"
これが答えだった。その先輩が言うには人の理があるとすればそれは絶対的な教え。
つまり宗教になる。
宗教の悪いところは洗脳ではなく自己判断する能力を奪うことだ。
そういう見解だった。
"人の理というものは存在しない"
では何を信じるべきなのか?
この問いに先輩は答えてくれた。
それは
"愛情を示すこと"
である。
内容は省略するが、ウツのため相方に愛情を示すことがなくなった。
そのため今愛情の水位が下がっているというのだ。
そこへ愛情の水を注くことで相方が戻ってくるという。
ただ、愛情の水を注いでも水位が上がらなかったとき、
どこかに穴があることになり、それはそれで×を選択できる。
つまり、今私にできることは愛情を示すことなのだ。
少し話がまとまらなかったが、理性を保ったゆえに
今は落ち着いている。
今日の私は愛情をすめすことが最大の努力と感じている。
さて明日はどうなることやら。。。
さて、今日の話。
昨日から一転して今日起きた時は理性が保たれていて、怒りは消えていた。
しかし朝起きると同時に激しい頭痛に襲われる。
おそらくだけど、寝ているときでも脳は活発に活動していたのだろう。
朝からバファリンを飲んで仕事に出かけた。
朝の通勤途中で考える。
「仕事の場合、お客様第一という絶対的原則がある」
「私の好きな物理も"物の理"とかく」
「であれば、人の理とはなんだ?」
そう、絶対的原則があるからこそその原則にのっとることでまとまる。
人の理とはなにか。
少し考えてみた。
例えば、大きなコップに水が入っているとする。
具体的な数字を付けるとすればMAX10リットル。
この10リットルは半分に分かれる。
5リットルは自分のため。
残り5リットルは人のため。
自分に余裕があるときは水位は5リットルを超えている。
つまり自分を満たしかつ自分に余裕がある。
その余裕を人のために使う。
さて、今回のように自分に余裕がなくなった場合、
すなわち水位が5リットルを下回った場合、
当然人のためという考え方はなく、
なんとか水位を保ち自分を守ろうとするだろう。
この、自分と人の境目をデットラインと呼んでおこう。
デットラインを下回った水位を元に戻すためには2通りある。
1つはデットラインまで水を入れること、
すなわち他で補うということだ。そう、私が怒りで補ったように。
もう1つはデットラインそのものを下げること。
そう、それは私がすべてのものに興味がなくなったように。
これが、人の理か?と思いながら仕事場につく。
今日は仕事はできた。
続きはまだある。
夜、会社の中で最も信頼できる人に相談をしてみた。
この人はコミュニケーションのスペシャリストだから
何か答えが返ってくると思ったからだ。
"人の理ってなんですか?"
"そんなものはない"
これが答えだった。その先輩が言うには人の理があるとすればそれは絶対的な教え。
つまり宗教になる。
宗教の悪いところは洗脳ではなく自己判断する能力を奪うことだ。
そういう見解だった。
"人の理というものは存在しない"
では何を信じるべきなのか?
この問いに先輩は答えてくれた。
それは
"愛情を示すこと"
である。
内容は省略するが、ウツのため相方に愛情を示すことがなくなった。
そのため今愛情の水位が下がっているというのだ。
そこへ愛情の水を注くことで相方が戻ってくるという。
ただ、愛情の水を注いでも水位が上がらなかったとき、
どこかに穴があることになり、それはそれで×を選択できる。
つまり、今私にできることは愛情を示すことなのだ。
少し話がまとまらなかったが、理性を保ったゆえに
今は落ち着いている。
今日の私は愛情をすめすことが最大の努力と感じている。
さて明日はどうなることやら。。。
コメント
すごい哲学的な話ですな。
人の理とは何か。一生かけて考えてもわからない命題ですよね。でも、それが明らかになったら視界が一気に開ける気がします。
今は自分の人生の岐路。そんなことを勝手に思っています(笑)