さて、ひと段落したから少し流れを書いておこう。
母は1ヶ月入院して2週間退院、
そしてまた1月入院という流れを繰り返していた。
それ故に相方のご両親と挨拶をするタイミングは
退院した直後だと思っていた。
そう、次に待っているのは両家の挨拶だった。
6月の後半、母はその流れに乗るように入院した。
しかし今回の入院は少し違っていた。
体調が悪くなっているのに一向に病院に行こうとしない母。
そんな母を見かねた兄が半ば強引に病院へ連れて行った。
もしかしたら母はわかっていたのかもしれない。
今回入院したら最後だということを。
だからぎりぎりまで家に居たかったのかもな。
そして、入院直後から母には酸素マスクがつけられていた。
腹水→胸水→肺圧迫となり、肺の半分を圧迫しているため
呼吸がうまくできないとのこと。
胸水をとればいいのだが、
その分栄養分まで抜けてしまうから一長一短。
酸素マスクに、見たことのない点滴。
管が入り、とても苦しそうな格好だった。
それでも元気づけるために、
結婚式場のパンフレット等を見せて
母:「私、頑張って今回も退院するわ」
と言ったのが6月30日。
母の状態と入院してることは相方父には話していた。
相方母は病気というものにとても敏感であり、
病気の話になると異常反応を見せる。
そのため相方母に話す前に相方父に話していたのだ。
ただ、今回の入院が酸素マスクまでしているとは話していない。
私:「今の入院が終わったら、挨拶の食事会をしますね」
それを相方父に説明したのが7月2日。
相方父:「よし、その流れで行こう!!」
と相方父も乗ってきてくれた。
さて、翌日7月3日の夕方。
兄から電話が入る。
兄:「すまない、今すぐ来てくれないか?オカンが持たな・・・・」
電話の最後は兄の泣く声でよく聞き取れなかった。
そう、事態が急変し、母の容体が一気に悪化。
すぐさま車に乗り片道1時間半の道のりを制限速度
ぎりぎりでぶっとばしていった。
車を運転しながらマイクで相方へ連絡。
私:「明日お通夜になるかもしれない、それぐらい危険な状態だ」
と状況報告。電話越しで泣きじゃくる相方。
相方:「私も行きたい!」
正直来てほしかった。しかし夜出発することに
間違いなく相方父母は疑問を抱く。
なんせ、私は今回の入院がそこまで大変なこととは言っていないからだ。
状況がわかり次第連絡するとだけ伝えて電話を切った。
病院までの1時間半。私の気持ちは
私:「せめて、私がつくまで持ってくれ!!!」
であった。ついた頃にはすでに・・・という可能性もあったからだ。
無事病院到着。
母はまだ生きていた。
しかし今まで以上につらい状態。
血も吐いている。
そんな中先生から呼ばれて別室へ。
先生の言葉はとてもつらいものだった。
先生:「今夜を乗り切れるか乗り切れないかの瀬戸際です」
兄と私でその言葉を聞いた。
うなずくことしかできなかった。
しかし病室に泊まることもできず、
「何かあったら連絡してくれ」と兄貴の自宅へ行った。
兄&私:「じゃあな母さん、明日も来るから」
母 :「うん、バイバイ」
実はこれが最後の会話である。
もしかしたら母は帰ってほしくなかったのかもしれない。
ただ、病院にある個室はその時満室であり、
どーしてもそこに泊まることは困難だった。
故に緊急出動の場合15分で着く兄帰宅にて一時休むことにした。
この段階で私は翌日の仕事を休むことにした。
その日が大変な一日になるかもしれないと思ったからだ。
その晩、葬式についての話をした。
はたから見たら不謹慎。
ただ、私たちの考えは
「最後もきっちり送るんだ!」
と一致していたから、よく話せた。
そして就寝。。
翌日の話は次回に回そう。
母は1ヶ月入院して2週間退院、
そしてまた1月入院という流れを繰り返していた。
それ故に相方のご両親と挨拶をするタイミングは
退院した直後だと思っていた。
そう、次に待っているのは両家の挨拶だった。
6月の後半、母はその流れに乗るように入院した。
しかし今回の入院は少し違っていた。
体調が悪くなっているのに一向に病院に行こうとしない母。
そんな母を見かねた兄が半ば強引に病院へ連れて行った。
もしかしたら母はわかっていたのかもしれない。
今回入院したら最後だということを。
だからぎりぎりまで家に居たかったのかもな。
そして、入院直後から母には酸素マスクがつけられていた。
腹水→胸水→肺圧迫となり、肺の半分を圧迫しているため
呼吸がうまくできないとのこと。
胸水をとればいいのだが、
その分栄養分まで抜けてしまうから一長一短。
酸素マスクに、見たことのない点滴。
管が入り、とても苦しそうな格好だった。
それでも元気づけるために、
結婚式場のパンフレット等を見せて
母:「私、頑張って今回も退院するわ」
と言ったのが6月30日。
母の状態と入院してることは相方父には話していた。
相方母は病気というものにとても敏感であり、
病気の話になると異常反応を見せる。
そのため相方母に話す前に相方父に話していたのだ。
ただ、今回の入院が酸素マスクまでしているとは話していない。
私:「今の入院が終わったら、挨拶の食事会をしますね」
それを相方父に説明したのが7月2日。
相方父:「よし、その流れで行こう!!」
と相方父も乗ってきてくれた。
さて、翌日7月3日の夕方。
兄から電話が入る。
兄:「すまない、今すぐ来てくれないか?オカンが持たな・・・・」
電話の最後は兄の泣く声でよく聞き取れなかった。
そう、事態が急変し、母の容体が一気に悪化。
すぐさま車に乗り片道1時間半の道のりを制限速度
ぎりぎりでぶっとばしていった。
車を運転しながらマイクで相方へ連絡。
私:「明日お通夜になるかもしれない、それぐらい危険な状態だ」
と状況報告。電話越しで泣きじゃくる相方。
相方:「私も行きたい!」
正直来てほしかった。しかし夜出発することに
間違いなく相方父母は疑問を抱く。
なんせ、私は今回の入院がそこまで大変なこととは言っていないからだ。
状況がわかり次第連絡するとだけ伝えて電話を切った。
病院までの1時間半。私の気持ちは
私:「せめて、私がつくまで持ってくれ!!!」
であった。ついた頃にはすでに・・・という可能性もあったからだ。
無事病院到着。
母はまだ生きていた。
しかし今まで以上につらい状態。
血も吐いている。
そんな中先生から呼ばれて別室へ。
先生の言葉はとてもつらいものだった。
先生:「今夜を乗り切れるか乗り切れないかの瀬戸際です」
兄と私でその言葉を聞いた。
うなずくことしかできなかった。
しかし病室に泊まることもできず、
「何かあったら連絡してくれ」と兄貴の自宅へ行った。
兄&私:「じゃあな母さん、明日も来るから」
母 :「うん、バイバイ」
実はこれが最後の会話である。
もしかしたら母は帰ってほしくなかったのかもしれない。
ただ、病院にある個室はその時満室であり、
どーしてもそこに泊まることは困難だった。
故に緊急出動の場合15分で着く兄帰宅にて一時休むことにした。
この段階で私は翌日の仕事を休むことにした。
その日が大変な一日になるかもしれないと思ったからだ。
その晩、葬式についての話をした。
はたから見たら不謹慎。
ただ、私たちの考えは
「最後もきっちり送るんだ!」
と一致していたから、よく話せた。
そして就寝。。
翌日の話は次回に回そう。
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