新たな命

2014年8月23日 第4章
またもココにきてしまった。
まぁーしょうもない理由なんですけどね^^;

大まかな流れでいうと

・母の一周忌が終わりました
・私の結婚式が無事完結。新しい生活が始まっています。

そして、今・・・子供ができました。
といってもまだサクランボぐらいの大きさですが。
今日はそのお話。

妊娠について一通り本を読んだつもり。
ただ、嫁の辛さは本では表せない。
今日もまた仕事から帰ってくるとすぐにトイレにこもっていた。

そう、つわりである。

この一週間嫁はご飯を食べるとすぐにつわりで戻してしまう。
戻すのに結構体力使うのは私も風邪等で経験済み。
その成果毎日嫁は疲れ切っている。

仕事の時は気を張っているからまだ大丈夫なのだが、
家に帰ると安心するのだろう、一気に疲れが表面化してしまい
直ぐ横になってしまう。

それはそれでいいのだが、現在家事ほとんどを私がしている。
まぁー一人暮らしを経験してて本当によかったと実感している。

ただ、一人暮らしと違うのはその量である。
洗濯物も2倍、掃除の範囲も2倍という感じで結局今日も
途中途中休んだとはいえ一日使ってしまった。

自分がしてわかるのだが、家事とて侮れない量である。

本当は休日、時間を使って資格の勉強をしたいのが私の思い。
ただ、子供ができた今そうも言ってられないから、
まぁーしたいことを我慢しているといえば我慢している。

さて、グダグダとなってしまったがこれが今の状態。

そして今日、嫁が泣いた。
詳しく言うと
「ここ最近自分が家の事を何もできないことに腹が立ち、情けなく思ってしまい泣いた」

まぁー自分の体が毎日変化して、なおかつ食べても吐くという流れのせいか
自分の心も乱れたのだろう。

仕事から帰ってきて、トイレで吐いて、疲れたから少し横になるといってベットに横になったのはいいが、
寝室からオエオエと泣き声が聞こえてきた。

つわりにしては変な声やなと思って見に行くと泣いてた。

俺も我慢していれば、嫁はもっと耐えていたのだ。

今はすやすや寝ているがな^^;

ふぅーちょっと俺も落ち着いた。
風呂入って寝るとしよう。

本葬という行事

2013年11月10日 第4章
さて、本葬当日。
私の大役は母への別れの言葉を言うことだ。
別れの言葉そのものは前回書いている。

この別れの言葉。
もちろん読む時にも泣かずにはいられないのだが、
ぶっつけ本番というわけにもいかず、何回か読む練習をしたのだ。
その練習の段階から涙ボロボロでまぁー収拾がつかない。
今思えば笑えてしまうのだが、ほんと読むだけでなぜか涙が出てしまう。
それだけ自分の思いを言葉にできたといえばできたのだが。。

本葬が始まり、そして別れの言葉。
できるだけ来ている人が全員出てくるようなストーリを考えた。
その結果・・・会場は涙涙涙・・涙という漢字をいくつ書いても
足らないくらいの涙であふれていた。
私の役目としては成功なんだけどね。
涙の数があなたの生きた証だから。

そして最後の挨拶を兄が行うのだが、
これも先ほどの私の別れの言葉の影響で兄も号泣しており、
最後の挨拶が泣き声だったのも少し嬉しくて「してやったり!」と思ったわけで・・・
後で兄から「おまえ・・・あの別れの言葉は卑怯だぞ!」と褒め言葉をもらったよ。

本葬が終わり、火葬場につき、火葬場のスイッチは兄に押してもらった。
私たちの長だからね。

相方と相方家族はここでお別れ。なんせ火葬が終わるまで待っていると
家につくのが夜遅くなるから。

むしろ火葬場までよく来てくれたと思った。
ゆくゆく親族になるとはいえ、まだ親族ではない立場。
正直難しい立場だったと思うのによく最後までいてくれたと思ったよ。

火葬が終わるまでの待ち時間、
私と兄は
「終わった・・・・!!」とハイタッチと握手をした。
2人でそれぞれを褒め合い、
無事母を送ることができたことへの労いの言葉だらけだったかな。

火葬が終わり、遺骨を拾う作業。
母の変わり果てた姿。でも不思議と泣きはしなかった。
その代りに遺骨を大事に拾いたいという気持ちが大きくなった。

遺骨の入った遺骨ケースをもってやっと2日ぶりの兄宅へ戻った。
母にとっては1週間ぶりの帰宅。

こうやって3日間という短い期間ながら
中身はとてつもなく濃い期間を過ごした。

この日の夜は体力つけるために鰻を食べたね。
うまかった・・・。
悲しみというより達成感に包まれてたね。

悲しみは来るよ。今でこそたまに来るんだから。
悲しみは悲しみとして受け入れようと思う。逃げることはできないし。
この悲しみは人生に力になると私は思うね。

ふぅーやっとかけた。
4カ月前の話か・・・半年前はオカン生きてたんだよな。
去年の正月は一緒に過ごしたんだよなって思うと不思議な感じがする。
いつかは来るとわかってた。だからこそ受け入れやすかったのかな。

おかん・・・・ありがとうな。

通夜という行事

2013年11月10日 第4章
ほんと、すまない。
早めに続きを書くつもりが忙しくてなかなかここにこれなかったよ。
忙しいというのは結婚式の話なのだが・・^^;

さて、4カ月前の話なるが前回の続きを書こうと思う。

母の急変からの翌日。
思った以上に寝れたと思った。
兄貴と義姉さんそして子供たちと普通の朝食をとった。

本音は朝一病院に行きたかった。
しかし母のいた病室は一般病棟。
故に面会は10時からなのである。
もしもの時は電話がかかってくることになっていたから、
まだかかってきていないということは息はあるのだろうと
判断していた。

そして9時半ごろ病院から電話があった。
看護士:「そろそろ来ていただけませんか?」
既に準備はしていたから即出発。

私は母の容体を見て、一旦2時間かかる自分の家に帰るつもりだった。
なんせ、なーんにも持ってきていなかったからね。
着替えに喪服にその他モロモロ・・。

ただ、帰る時間なんてなかったというのが現実だった。

病院についた私たちの目の前にいたのは、
目は半開き、瞬きもない、呼吸は1分間に1回しているという
母の姿だった。

私:「母さん!!」

その声にこたえることができない母。
目玉も動いてない。
兄:「母さん!!」
泣きながら私と兄は呼び続けた。
そのうち義姉さんも着いて3人で呼び続けた。

私たちは最後少しでも会話ができると思っていた。
だからその会話の中で母が、
母:「離婚もして、私もこんな状態であなたたちに迷惑かけたね」
母:「ごめんね、こんな母で・・・」
という言葉を言うと思っていた、でも
母:「それでもこの人生幸せだった・・ありがとう」
って言ってもらえたら私たちに後悔しないことを決めていた。

残念ながらこの会話すらできない状態だったが、
ほんと最後、息を引き取る直前、母は涙を流した。
私たち3人が来たことがわかっており、
そして最後とわかっての涙だったのだろう。
「まだ生きたかった」という悔しい涙だったのか、
「みんな来てくれたね・・ありがとう」という感謝の涙だったのか
定かではない。

ただ、まぎれもなく母の目から涙は流れていた。
兄はそっとその涙に手を伸ばし
兄:「辛かったね・・休んでいいよ」

そして私は
私:「今までありがとう、あなたの息子でよかったよ」

と伝えた。そして鳴り響く心配停止を知らせる機械の音。
しばらく手を離せなかった。
手を離すことは、今目の前で息をしていない母を受け入れることだから。

自ら手を離すことができなかったから、
手を握っていない方の手で自分の手を外した。
そして握っていた母の手をそっと体の上に置いた。

2013/7/3 AM11:06 母は新たな旅に出た。

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あーやばいね、これ書きながらでも涙でよるよ^^;
でも続き書くけどね
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さて、そこから霊安室に移動となる。
お昼を母と一緒に食べた。
どーみても眠っているようにしか見えない母。
そんな母を目の前に出てくるのは思い出ばかり。
しかも謝罪の思いでね。
ずーと謝り続けていた、「あの時はごめんね」ってね。

この間相方に電話をした。
ちょうど相方は昼休みだったようでうまく電話がつながった。
私:「昨日話してた通り・・・旅にできたよ、おかんが」
相方は泣いていた・・・というより泣きじゃくってた。
相方:「夕方・・通夜に行くから」
相方のこの言葉がうれしかった。


ひと段落ついたら次は葬儀の手配。
霊安室→葬儀場についたのがPM3:00。
正直通夜は明日になるだろうと思ったのだが、
兄は今日することを強く望み、さぁーこっから準備となる。
悲しんでいる暇なんてない。
なんせ、兄と私の気持ちは一つ
「最後・・しっかり送るぞ!!」
だったからね。

=兄=
・母の側で葬儀の事柄を葬儀担当者と決める

=私=
・一旦兄宅に戻り必要な物(母の写真や喪服等)の調達
・運転しながらマイクを利用して関係者へ連絡
・相方父に連絡を入れる

きれいに役割分担ができたし、むしろ2人いてよかったなぁ~って正直思う。
親族がいれば頼れるが残念ながらウチはそういうのなかったからな。

通夜の始まりはPM7:00、本当にぎりぎりだった。
とはいえこの限られた状況下でよくできたと思った。
母:「あなたたち・・・ちゃんとできると?」
そんな目で母の遺影は私たちとみている気がした。
だから眠っている母をみながら、
私:「どや!ちゃんとできたろ?」
と私は言ってやったよ♪笑

夜遅く、相方家族がまぁー全員で来てくれてびっくりした。
相方家から葬儀場まで2時間かかるんだよ?本当にびっくりした。
そしてびっくりしたのがもう一つ。

この葬儀場が両家の顔合わせになってしまったということだ。
私:「母さん・・・あんたの力ってすげーな」
正直思ったね。
相方も相方で、翌日の仕事を休んで今夜は一緒に居てくれるという。
まだ婚約者の段階だから親族ではない。
だけど職場には
相方:「親せきのおばちゃんが亡くなった」
といって休みをもらったようだ。
まぁーゆくゆくはそうなるんだけどね^^;

そんなこんなで母と私と相方、そして兄、義姉さん、姪っ子甥っ子で
一晩を過ごすことになった。

このころは疲れなんて感じてなかった。
翌日の本葬の打ち合わせだの、ちょっとした思い出話だの
直ぐ夜は過ぎ去ったように思えた。

さて、一旦ここで切っておこう。
本葬の話は次回に・・・。
さて、ひと段落したから少し流れを書いておこう。


母は1ヶ月入院して2週間退院、
そしてまた1月入院という流れを繰り返していた。

それ故に相方のご両親と挨拶をするタイミングは
退院した直後だと思っていた。

そう、次に待っているのは両家の挨拶だった。

6月の後半、母はその流れに乗るように入院した。
しかし今回の入院は少し違っていた。

体調が悪くなっているのに一向に病院に行こうとしない母。
そんな母を見かねた兄が半ば強引に病院へ連れて行った。
もしかしたら母はわかっていたのかもしれない。
今回入院したら最後だということを。
だからぎりぎりまで家に居たかったのかもな。

そして、入院直後から母には酸素マスクがつけられていた。
腹水→胸水→肺圧迫となり、肺の半分を圧迫しているため
呼吸がうまくできないとのこと。

胸水をとればいいのだが、
その分栄養分まで抜けてしまうから一長一短。

酸素マスクに、見たことのない点滴。
管が入り、とても苦しそうな格好だった。

それでも元気づけるために、
結婚式場のパンフレット等を見せて
母:「私、頑張って今回も退院するわ」
と言ったのが6月30日。

母の状態と入院してることは相方父には話していた。
相方母は病気というものにとても敏感であり、
病気の話になると異常反応を見せる。
そのため相方母に話す前に相方父に話していたのだ。
ただ、今回の入院が酸素マスクまでしているとは話していない。

私:「今の入院が終わったら、挨拶の食事会をしますね」

それを相方父に説明したのが7月2日。

相方父:「よし、その流れで行こう!!」
と相方父も乗ってきてくれた。

さて、翌日7月3日の夕方。
兄から電話が入る。
兄:「すまない、今すぐ来てくれないか?オカンが持たな・・・・」
電話の最後は兄の泣く声でよく聞き取れなかった。

そう、事態が急変し、母の容体が一気に悪化。
すぐさま車に乗り片道1時間半の道のりを制限速度
ぎりぎりでぶっとばしていった。

車を運転しながらマイクで相方へ連絡。
私:「明日お通夜になるかもしれない、それぐらい危険な状態だ」
と状況報告。電話越しで泣きじゃくる相方。
相方:「私も行きたい!」

正直来てほしかった。しかし夜出発することに
間違いなく相方父母は疑問を抱く。
なんせ、私は今回の入院がそこまで大変なこととは言っていないからだ。

状況がわかり次第連絡するとだけ伝えて電話を切った。

病院までの1時間半。私の気持ちは
私:「せめて、私がつくまで持ってくれ!!!」
であった。ついた頃にはすでに・・・という可能性もあったからだ。

無事病院到着。
母はまだ生きていた。
しかし今まで以上につらい状態。
血も吐いている。
そんな中先生から呼ばれて別室へ。
先生の言葉はとてもつらいものだった。

先生:「今夜を乗り切れるか乗り切れないかの瀬戸際です」

兄と私でその言葉を聞いた。
うなずくことしかできなかった。

しかし病室に泊まることもできず、
「何かあったら連絡してくれ」と兄貴の自宅へ行った。

兄&私:「じゃあな母さん、明日も来るから」
母 :「うん、バイバイ」

実はこれが最後の会話である。
もしかしたら母は帰ってほしくなかったのかもしれない。
ただ、病院にある個室はその時満室であり、
どーしてもそこに泊まることは困難だった。
故に緊急出動の場合15分で着く兄帰宅にて一時休むことにした。

この段階で私は翌日の仕事を休むことにした。
その日が大変な一日になるかもしれないと思ったからだ。

その晩、葬式についての話をした。
はたから見たら不謹慎。
ただ、私たちの考えは
「最後もきっちり送るんだ!」
と一致していたから、よく話せた。

そして就寝。。

翌日の話は次回に回そう。
さぁ、ここは心の整理をするための記録をする場だ。
だから今から数週間にかけて再度濃密にお世話になるだろう。笑

ずばり、

"母が他界した"

約1週間前の話だ。
いろいろ詳細は別途書くことにする。
驚くべき展開が待っている内容だから。
ただ、
今日は覚えているうちにこれを書こうと思う。

葬式の時の最後に言った
私から母への最期の別れの言葉だ。

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「おっす!」
いつも母さんと会う時はこの言葉から始まっていたね。
今日は最後の別れの言葉を言いに来たよ。
昨日から考えていたけど、
涙なしでは伝えることができないから、
今日は相方にも来てもらったよ。
では、始めるね。

母さんはもともと福岡出身の福岡育ちの女性だったね。
「子供は絶対地元で産みたい!」
との意志が強く、兄も私も福岡で生まれて、そして一緒に長崎で
過ごしたね。

私が小さい頃元気だった母さんは
日中はパート、夕方は食事作り、夜は
「寝るのが9時過ぎると不良になるよ!」
と少し厳しい母でした。そんな母さんが私たちは大好きだったよ。

C型肝炎が見つかりインターフェロンに何回も挑戦したけど、
効果はなく、私が高校生の時、医者から
「余命5年」
と言われたね。それでもあなたは「絶対に生きる!」と
強い意志のもと、病気と闘ったね。
兄の就職に、私の就職、兄の結婚に孫がふたり。
今は寝てしまってるけどね。笑
この先もずっとイベントを見せていけると思っていたよ。

覚えていますか?
小さい頃、ここにきている近所の皆さんと
BBQをしたことを。

私が覚えているのは去年の9月のイベントかな。
一人暮らしをしている私の住んでいる街を見たいということで
私の待ちまで旅をしてきたね。
でも、一人旅ができる体ではなかったから、
兄と義姉さんと一緒に駅まで来て、
そこから列車に乗って私の待つ駅まで来たね。

ここまでは兄も知っている内容だけど、
この先は2人だけの内緒の旅だった。
今日は話していいよね?

この時私は2つの選択肢を準備していました。
①このままゆっくり私が住む街をぶらり旅をする
②少し身体はきつくなるが、生まれ育った福岡に行く
母さんの答えは即答だったね。
「福岡に行きたい!!」
育った家に、通った小学校、高校、よく行った西公園。
最後にラーメン食べて帰ったよね。

私の家に一泊後、翌日は相方との初対面をかねての
食事会。
場所は地元で有名なレストラン。
食事が終わると母さんは
「巨大シュークリームとミルクセーキが食べたい!」
といったね。
「そんなに食べれると??」
と私が聞くと
「デザートは別腹♪」
とお茶目な返事を返してきたね。
結局巨大シュークリームは少し残ったけどものすごい食欲
だったのを覚えているよ。
長崎への帰り道、
「またあなたの家に泊まりに行くから」
と言ってくれたのを覚えているよ。

そんな思い出から10カ月たった今、この場に私が立っていることが
今でも信じられないよ。

福岡行は私からのサプライズだったけど、
今日は相方のお父さん、お母さんも来てくれたよ。
兄家族、親せきとも顔合わせすることができた。
これって母さんが準備した福岡行のサプライズのお返しなのかな?

10年前に「余命5年」と宣告を受けながらそれを超えたあなた。
それは母さんが持っていた「生きる!!」という
強い意志が力をくれたんだと思うよ。
私の好きなワンピースにてCP9に捕まったロビンが
助けに来たルフィに対して
「いぎだい!私も海に連れて行って!!」
と叫んだことによく似ているよ。

あなたは生まれ育った土地を離れたから、
子供のころの友人がおらず、寂しいと言っていたね。
でも、みてごらん?
昨日と今日、これだけの人が来てくれたよ。
あなたは一人じゃなかったんだよ?
これがあなたの生きた証なんだ。

今までいろいろあったね。
その中であなたは命を懸けて私たちに教えてくれた
ことがある。
その事を含めてここであなたに誓いを立てるよ。

一つ、
"兄と絶対にけんかしません"
生前、あなたが一番気にかけていたことだから

一つ、
"今いる親族及び増えるであろう親族と争いはしません。"
あなたは一番苦しんでつらい思いをしたことだから。

今頃じいちゃんとばあちゃんに会いに行ってるんだろ?
しばらく会ってなかったから存分に楽しんでおいで。
ここに大好きなくりと梅酒、じゃかりこ、パイナップルを
置いといたからこれも持っていきな。

こっちのことは私たちに任せとけ、しっかりやるから。

んじゃ、またな。

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ふぅーやっとかけたよ。
とりあえずこれだけは、覚えているうちに
残しておきたかった。

ざっとこの流れを書いておくと
①母の急変
②通夜の準備
③通夜と本葬に相方参列
④それに伴い相方両親も参列
→この場で両家の顔合わせとなる
⑤通夜と本葬無事完了
⑥相方母親への影響
⑦悲しみは後から来る
⑧遺産相続問題

こんなもんかな。
あとは書いて心の整理をするだけだから、
じっくり書いていくよ。
ながくなるよーーーーこの章は^^
今日はGW前半の最終日。
なーんにも予定を入れずだらだら過ごそうと
思っているよ。
なんたって先週は忙しかったから。。。

この日記の第2章で

>母の病気の進行がワンランクアップしたこと
>これは腹水と呼ばれる体に水がたまる症状。
>これがくると次のステップは・・・・「死」です
>これは受け止めなければなりません。
>ただ。。。時期だけは何とかしたい
>最悪結婚式と重なってしまう可能性もあるんです。
>それだけは避けたい。
>最後のメインストーリーを見させてあげたいんだ。

>結婚式のときすでに母はいない。
>そんなシナリオはごめんです。

こんな記事を書いたことがある。

>母の病気の進行がワンランクアップしたこと
>これは腹水と呼ばれる体に水がたまる症状。
>これがくると次のステップは・・・・「死」です
これは少し予想が外れました。
腹水の後にもいろいろステップがあったわけだから。

>最悪結婚式と重なってしまう可能性もあるんです。
>それだけは避けたい。
>最後のメインストーリーを見させてあげたいんだ。

>結婚式のときすでに母はいない。
>そんなシナリオはごめんです。
問題はここ。
これが今の状況と合っているもんだから、
自分でも驚いている、想定内だったからね。

この日記に兄のプロボーズの話をした。
今度は私のプロポーズの話をしよう。

先週末、ドキドキのプロポーズをしてきた。
結果は・・・・
「・・・・・うん。」
と、いうことで私もとうとう結婚することになった。

プロポーズの流れを2月前からずーと考えていた。
1月前から緊張が始まり、落ち着かない日々が続いたね。
そんな中、母の事もあり、だったから相当過激な3,4月を過ごした
と感じる。
とはいえ、自分が中心の場合はシナリオとか考える余裕なんてなかった。
シナリオがどうのこうのというのはあくまでも少し離れた存在で
しか考えられない。
自分がどうすべきかをしこたま考えた月だったかな。

そんなこんなで、もう一回書くが、
「オレ、結婚するわ!」

さて、のんびりの今日、母が退院する。
驚くべき回復力である。
杖は必要なものの歩けることができている。

肝性脳症が出たときのことを考えると
想像できないよ。
起きるのもやっと、辛そうな顔。
「私このまま死にたいの」
って言った時のこと。

嘘のような顔で昨日は笑っていた。
「私・・・まだ生きるわ!」
ホントすげーと思った。
私も兄も諦めない気持ちと同時に
覚悟をもっていた。
兄と私、話しながら涙した。
正直、最後の式の話もした。
不謹慎かもしれない。
けれど、最後まできっちりするのが私たち2人の役目だと思った。
これは兄も同じ考えだった。

さて、次は結婚式である。
時期は未定だし、何やればいいかわからん。

とりあえず一つ一つ進めていこうと思う。
おいっす!
今日も記録のために書いておこう。
まぁここに書かずして最近気持ちの整理はできるようになった。
けど後から見て何かの参考になるだろうから、
ここに書いておこう。

まずは母の状態。
このままラストを迎えるのではないかという
状態から少しずつ改善している。
私たちにきることはひたすら
見舞いに行って
「あなたを待っている人がいるよ」
と伝えることである。

それが伝わったのかどうかわからないが、
母は生きる気力で満ち溢れている。

だからなのだろうか、奇跡が起こったのは。

今回の状態を引き起こしているのは
体内におけるアンモニア濃度だ。

通常の2倍の濃度まで上がっていた。
それがどうだ、機能の検査で通常に戻っていたのだ。

私たちはこの濃度をもう下げることができないと思っていた。

「オーイ今日血液検査でアンモニア数値が正常値になったよ」
「私もびっくりだし先生もびっくりしてた」

こんなメールが仕事中入ってきた。
私はこれを見た恥ずかしながら嬉しくて涙を流した。

「どや!これが家族の力や!!」ってね。

この2週間兄と頻繁に連絡を取り、
毎日どちらかが母に会えるように調整した。
だからこそ嬉しかった。
とはいえ、安心はできないのはわかっている。
歩くのさえ困難になっているから
歩行器がないと歩けない。
自分で起き上がることもできないから
介護用電動ベッドが必要になっている。
確実に悪化している、けどまだラストには早い。
まだまだ母の物語は続くようだ、いや続けていくのだ。

さて、今日はもう一つ書いておこう。
今はだれもいない実家。
定期的に掃除を私がしている。

そんな中であるアルバムを見つけた。
そう、父が載っている写真が数枚出てきた。

離婚後、母は狂ったかのように父の写真を切り刻んで
すべて捨てた。その作業を私は見ていた。
そう、すべて捨てたと思っていたが少しだけ残していた。

驚くのはその写真の中の一枚。
私をはじめ、兄、母、そして父がそれぞれの写真から切り取られて、
一枚の写真になっていた。
いわば、切り貼りして強引に作った家族写真。

不思議な感覚だった。
母は今どう考えているのだろう、父のことを。

いつか話す時が来ればいいなと私は思う。

母の気力。

2013年4月7日 第4章
ふぅー第4章らしく
中身の濃い話になってきたよ。
不思議なものだ。
まずは母の話。


あれから輸血やらなんやらと治療をしてる。
まだ、母は生きている。かなり危ない状況だが。
退院の目途もたっていない。
毎週土曜日に見舞いに行っている。
今の土地から母の病院まで片道約2時間。
まぁードライブ気分で行っているんだがな。

相変わらずアンモニアの濃度が高い。
ゆえに物事を考えられなくなっている。

そして腹水もたまっている。
ゆえに体を動かすのに相当苦労している。

アンモニア濃度を下げるために点滴を打つ。
そうすると水分で腹水がたまる。
腹水をとればアンモニアの濃度が上がる。

つまり、今の状況を回復させるのに
八方塞がりなのである。

昨日も見舞いに行ってきた。
病室に入る前に先生に
「ちょうどよかった、話したいことがある」呼び止められ、
別室へ。

話の内容は兄が以前説明を受けた内容とほぼ同等。
・どうすることもできない
・家に返すこともできない
・一年、いや半年も持たない

うんうん、とし言いようがない。
なんせ知っている内容だから。
その時はよかった。

けどそのあと直ぐに母の部屋に入ることになる。

辛かった。
兄も電話で言っていた。
「先生の話ももちろん厳しかったが」
「そのあとすぐに母にあったのが一番辛かった」

私が来たことに笑顔で迎えてくれる母、
しかしその笑顔もあとわずかだと思うと、
涙が出そうになる、もちろん出すわけにはいかないさ。

苦しむ母、起き上がるのも辛そう。
その辛そうな母の姿も見れなくなってしまう。
そんなことが頭の中でポンポンと出てくる。
泣きそうだ、でも泣いてはいけない。

いやー辛かった。

母自身も自分の今の状況がわかっているようだった。

正直、あとは母の気力次第でどこまで伸ばせるかだ。
いやだよ、こんなこと言うのは。
ただそれが現実だから、受け入れるしかないんだ。

だからこそ私は母の気力を上げるための動きをとる。

つ~ことで、今度は私の話。

先週末取引先の引っ越しの手伝いに行ってきた。
そのお礼としてビールの箱(24本入り)をもらうこととなる。
ただ、私はお酒をあまり飲まない。
そこで思い立つ。

「あ、このビール相方のお父さんにプレゼントしよう」
「そして、ポイント稼ぎをするのだ 笑」

問題は、相方に渡すか、お父さん本人に渡すか。
お父さんに私に行くなら相方宅に行く必要があるが、
まだ行ったことがないこの状況。

相方経由で渡すとポイント半減。

どうしたものか・・・。
と悩んでいると、引っ越しの帰りに寄ったお店で
偶然お父さんと鉢合わせ。

「チャンス!!」と思った私は
すぐさま事情を説明し、ビールをプレゼントした。

そうするとお父さんが

「よし!今日は家に来なさい、すき焼きでも食べよう!」

ということで初めて相方宅に上がり家族とご飯と食べてきた。

そしてプロポーズまであと2週間。。。。
考えること多すぎて頭パンクしそうだよ、まったく。。。

羽ばたき振戦

2013年3月27日 第4章
さーて、平日のこの時間にこの日記を書くのは
ほとんどありません。
だっていつもだったらおねむの時間ですから。
ただ、今日はどうしてもここに書いておきたいことがあります。

来ましたよ、この時が。
母の記憶障害、肝性脳症が急激に悪化しました。

少し詳しく書きます。

前回相方とディズニーに入った話をしました。
そのお土産を持って相方と2人で兄宅に遊びに行きました。
その時母も居てにぎやかに話ができたのですが、
翌日母入院しました。
急なことで私もびっくりした次第だし、
当の本人もびっくり。

さて、いつもの入院なら問題ないのですが、
今回は大きく違います。

入院2日目、兄が医者から
「お母さんのことでお話したいことがあります」
と電話があり、兄が一人で医者と会いました。

・・・・・・

医者:「お母さんの容体が著しく悪いです」
---省略----
兄 :「あとどれぐらいもつのですか?」
医者:「一年は間違いなく持ちません」

あまりに大きな宣告。
でも予想していた宣告。
この宣告を兄一人で聞かせてしまったのが
心苦しくさえ感じます。

そしてその5日後の今日。
2回目の医者からの呼び出し。
まさか1週間に2回も呼び出される兄。
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医者:「正直、和らげることしかできません」
医者:「覚悟してください」
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先ほどこの報告を受けながら
電話越しで兄は泣いていました。

兄:「すまん、これ以上はなすを俺泣くからここでいったん切るね」

兄が泣くのはそんなにない。
その兄が泣いていた。
私もつられて涙が出てしまった。

もう少し詳しく書いておこう。

3日前は普通に会話ができていた母。

母:「退院したらプールにでも行って歩きたいわ」

なんて話していたのに、
昨日になって事態が急変しています。

母は「モノが無くなった」と病院内をウロウロするようになったのです。
このモノというのは、はさみだったり、携帯だったり、しているようです。

しかしどれも枕元にあります。
そしてウロウロしているうちに
自分が何を探していたのかさえ忘れてしまい、
それでも何かを探すという行為はやめません。

わかりやすく言えば認知症の一種。
詳しく言えば肝性脳症の一種。

こんなこと今までにありません。

あーですます口調面倒だから、ため口で行くね。

肝機能によりアンモニアが解毒できず、
それが脳にまわるという症状。

今までにその傾向はあった。ただ軽かった。
けれど、今回のは軽いというものではない。

医者がいうには肝性脳症のうち5段階の内2段階ということ。
そこでもう一度医者の言葉。

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医者:「正直、和らげることしかできません」
医者:「覚悟してください」
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これはとてつも思い言葉である。
はたして半年さえ持つのか?

明日とりあえず病院に行ってくるよ。
前回の日記から2月経ってますね。
ではでは近況報告を・・・

①母の容体
正直に書いておきます。
ラスト間際になると入退院を繰り返すと言います。
まさにその時期に来ています。
1,2月で2回入院しています。
期間は2週間。つまり月の半分は入院というわけです。

原因もはっきりしています。

母も今の現状を自分で認識しています。
さて、こっからの問題がメンタル面ですね。

簡単に言うと
・体がより自分の思い通りに動かないという苛立ち
・今後どうなるのという不安

苛立ちと不安、これがミックスされるとあの"ウツ"が
やってきます。

・・・・考える前に思い付いたことを行動しなきゃ。

②プロポーズ大作成
今回の4章の主役は私です。
母が上記の状態だからと言って
そこばかりを見ていると物語は進みません。
ってことで少し私の近況を書いてお行きます。

彼女が偶然友人の結婚式で
「ディズニー入場券ペアチケット」
をGETしてきました。

そんなことで私としても人生初の
「東京ディズニー初上陸」となるわけですが、
その前に待ったをかけたのが彼女のご両親でした。

"東京に行くなら、一回私たちに彼氏を見せなさい!"

つまりご両親と初対面することになります。
正確にいうと"なりました"という過去形ですね。

仕事よりも緊張したし、
向こうも緊張してましたが、
何とか無事終了。
ご両親からは"うむ、合格じゃ!"という
返事もいただき無事東京旅行行ってきた次第です。

こっちの母もOK、
兄もOK
ご両親から合格をもらい、
旅行も行った今、
次のステップって何だろうって考えたとき・・・・

もうプロポーズしかないって思うんです。

さぁー次はプロポーズか・・・。
どうすればいいんだろうな、
悩む。。。。
いろいろココロノセイリをしなければならないことが多く出てきた。
今の課題というべきもので、
ゆえにココに書くのだが。。。

①仕事について
おそらくこの事柄も後で見て
参考になるから正直にココに記しておく。

仕事について6年生。
正直、中だるみが激しい。
要領がわかってきた。ゆえにがんばらない自分が多くなってきた。
仕事をしたふりをする。
でも実際はしていないのだから成績が出るはずが無い。

やれば成績がでる。
そんなのわかっているんだが、
それをやらない自分が多い。

これではダメだと思っているのだが、
なかなか行動できずにいる。

「意識の問題」

よく言われる。私も意識の問題だと想うのだが
その意識ができずにいる。

何か踏ん張れる材料を探しているのが
今の自分。

では何をしないのかは秘密の日記に書いておこう。


②体の弱さ
2月に一回は体調を壊して仕事を休んでいる。
先週も胃腸炎になり休んだ。

一人暮らしになって頻度が高い。
単純に食生活も考えられるが、果たしてそれだけか?
運動も確かに少ないがそれだけか?

自分でも想うのだが弱すぎなのである。
免疫が無さ過ぎるのだ。

何かあるとすべて病気のせいにするのは
私は"逃げ"だと思うし卑怯だと思う。
だけど、もしインターフェロンで治った代償で、
体が弱くなったとしたら・・・・。
別に深刻に悩んでいるんじゃなくて、
それならそれで受け入れるし、それなりに対策を打つ。
例えば運動をして補う体力をつけるとかね。

ただ、知りたいのだこんなに高熱を出すことが多いのはなぜなのか。

それともたまたまなのか。
少し調べてみないといけないな。
インターフェロンのその後の体験談を。。。

③お金について
さぁ現実問題が押し寄せてきた。
実家の固定資産税等々のお金の問題。
少し具体的に金額を挙げて書いておこう。
これを見て仕事をがんばる気になればいいのだが。。。

¥80,000・・・・・固定資産税
¥46,000・・・・・お寺
¥36,400・・・・・保険家財
¥120,000・・・・母お小遣い
¥250,000・・・・生命保険
¥40,000・・・・自動車税
--------------------------------
¥572,400(実年間経費)

¥540,000・・・・家賃
¥360,000・・・・車ローン
---------------------------------
¥900,000・・・・(ゆくゆく必要な年間経費)

合計:¥1,472,400

ふむ。やはりぎりぎりというべきか。
さぁ、どうよ私。
ココまで数字に表すと何か変わるか?


またもしばらくの間ご無沙汰しておりました。
ではでは近況報告しますね。

①母の手術。
母の肝硬変は既に末期まで来ており、
箇所箇所に癌が発見され始めています。
がん発見→治療(焼く)→落ち着き→がん発見
という回復にはならないスパイラルを
歩んでいます。
そして8月。
4月に癌が発見され、その場所がとても危険なところで
失敗すると死にいたるという問題。
医者は「したくない」というのが感想だった。
それでも強行突破で手術に挑んだ母。

手術当日、私は仕事を休んで母に立ちたった。
もちろん兄も来ていた。

久々兄と話す時間が持てて、
今後の事とかは話した。
お互いに最悪のケースを考えていたが、
今それを考えたくなかったから、
ひとまず母の帰りだけを願った。

結果。何とか終了。
しかしその手術中にもう一個のがんを発見。
翌週再手術となり母は結果的に1月入院をすることになった。
困難な手術も何とかクリアしたが、
それなりに体にダメージが残り、
退院したものの苦しい生活を送っている。

②母と彼女の対面
なんとか苦しい手術を乗り切ってもらうために
私は夢を与えるしかなかった。
それが彼女の対面だった。
母はかなり彼女に会いたがっていた。

それも実現をさせた。

③1年ぶりの検査
私のC型が治ったと結果をもらって1年が過ぎた。
1年ぶりの定期検査。
もしかすると再発している可能性や、
治っていない可能性が私にはあった。

定期検査は彼女も来てくれた。
結果・・・未検出。
そう、私はやはり完治していた。

簡単に書くとこんなところか。
具体的に書くのはいつも困ったときだ。
今はそこまで苦しんでないから
今の流れだけを書いておく。
今週の木曜日、母の手術があります。

以前ここでも話した手術だ。
母はリスクが大きいけどがんを持ちながら
生きていくなんて考えられないという判断になった。

いちかばちかの大勝負といっても過言ではないと思う。

この日私は仕事を休んで手術に立ち会おうと思う。
兄もそうするつもりだ。

母よ。あなたはまだ見たいものがあるんじゃないのかい??

これぞ第4章。

2012年6月30日 第4章
来たね、大きな波が。

以前も書いたことがあるが、
私はこういう経験をしているせいか、
家族が平和でない女性に惹かれる傾向があります。
自分の経験が活かせる、
そして私だからこそ支えることができる
という概念があるからでしょうか。

彼女の家に大きな波がきています。
目の前で彼女が
「どうしていいかわかんない、家族がばらばらになる」
といって大きな涙を流したんだ。
初めてでした。彼女の涙を見たのは。

要因の一つにウツの存在があることもわかった。

・ウツ状態になった親を見た息子の立場
・自分がウツ状態なり周りがどう見えたのかがわかった立場

そして今回。
・ウツで苦しむ人を支える彼女を支える立場

ほう。うまくできていると思ったね。

ということで今必死に本を読んでいます。

ウツによる家族の崩壊。
もう、私の目のまでこの忌まわしき出来事は起こさせない。
その決意を新たに決めた瞬間だったね。

これぞ第4章。
何かあるから「章」という表現であらわしているんだけどさ。
やるよ、私。


うつの後遺症。

2012年6月17日 第4章
どーも。
久々ここに来ています。
別に心が乱れているわけではないけど、
近況報告も含めてここに書いておきます。


①うつの後遺症。
後遺症といえば大げさですが、
気力がない時がすこし多く感じます。
もちろんストレスが原因なんだけど、
うつを経験してしまったから。
「やばい、この気力のなさはあの時と似ている」
「ってことは再発した?」
「どうする?彼女に打ち明けるか?でもそんな目で見られたくない」
等々ブワーーーーっと考えがめぐるようになった。

まぁ結果気力が戻ったんだがな。

考えすぎるのはよくない、と思うが。。。。


②彼女の悩み。
これも悩みだね。
今の彼女は男性と付き合うのが初めてである。
故に付き合うというものにとても興味がある反面、
わからないこともしばしばある。時に
「前の彼女とはどうだったの??」
と聞かれることがある。
彼女にとっては私の経験を付き合うという事柄のひとつの事例として
聞いてきている。

ただ、私はどこまで正直に話していいものかわからない。
なんせ私にとっても付き合うのが初めてという人と付き合うのは初めてだし、
2人目と付き合うのが初めてだからだ。

私の過去の話を正直に話して
彼女が嫉妬しないだろうか?
いやな気分にさせないだろうか?
そう思ってしまう。

難しいなぁ~。

とまぁ~今日は少しくだらない悩みを書いてみた。

母のほうはまだ落ちついているよ。
どーも、ご無沙汰。
日記のカテゴリを少し変えてみました。
この物語を章に分けてみたんだ。
左側のカテゴリー欄がそうだ。

単純に数だけで判断すると
第三章の「治療の始まり→元カノとの別れ→今カノとの出会い」
が一番濃いと言える。
その次に
第一章の「家庭の崩壊→離婚→元カノとの出会い」
となる。
うむ。どうやら生きてきた物語の中で
去年一昨年が一番大変だったようだね^^。

さて、ここの来たのは物語に変化が起きたからだ。

気になる母の容体。
ついに癌が見つかりました。
そしてそれは治療が難しい場所にあります。
治療をすれば対処できますが、
失敗する確率も多く、失敗した場合のリスクも大きい。
ようは死ぬってことね。

治療をすべきかしないべきか。

この選択肢を迫られているのが現状。

ここ最近の流れを短縮して書いておこう。

①熱が下がらないとのことで入院
②検査の結果肝臓にがん発見
③説明を受けた兄が慌てて私に電話
④治療はできるがリスクが大きい
⑤しかし治療しなければ拡大するだけ
⑥母と兄は泣きながら話した
⑦兄の考え
 基本的に母の考えを尊重するが、リスクの多い治療は避けたい
⑧母の考え
 がんを持ったまま生活するのは嫌だ、早く片付けたい。
 もし失敗してもそこまでの人生だ
⑨私の考え:後ほど述べよう
⑩とりあえず治療をするにしても母の体力の回復を待ってから
 ということで3ヵ月後の検査を待つ
⑪この3ヶ月間で考えをまとめなければならない。
⑫母はがん治療専門書を借りるが、読むことができず現実逃避(それでいい)

ってところかな。

そんな流れの中で母から
「離婚だし、私はこんなだし、父親はあんなだし・・・ほんとごめんね、こんな親で」
という言葉が出てきた。

正直予想はしていたい。いつかは母の口から出てくる言葉だと。
そしてもう一つ。この言葉が出てくるのは母が死が近いことを本当の意味で
認識した時だと予想していた。

その言葉がいざ目の前に降りた来た。
母は、自分の死が近いことを本当に認識したのだ。

そして、私はこの言葉が出てきたら必ずこう言おうと思っていた。

「私にとってあなたが母だということは幸せなことだと思うよ」
「大切なものを学ばせてくれたし、私もそれを100%学ぶことができた」
「ありがとう、母でいてくれて。」

ココに書いたとおりに言った。
すると母は・・・大粒の涙で泣いてしまった。

ココに書きながら私も目に涙が浮かんでいるのだが。

さぁココからが勝負の時だ。
兄は治療の方法や具体的内容を調べている。
私は治療の過程において周りがどういう行動をとるべきか必死に体験記を読んで
学んでいる。

役割分担。それでいいと思うよ。

母という存在がいなくなる時、
必ず後悔がうまれるといわれている。

ただ、私は心に1つ決めているんだ。
母が・・・「私の人生・・・幸せだった」
という言葉を言わせることができれば
私の後悔は無くなると。
あいや、どーも。
久々ですね。
何度も書くけど、ここに来る頻度が少なくなるということは
生活が落ち着いてきたということだ。
ではざっと流れを書いておこう。

①母の体
なんとか手術は成功した。
そして疑われていた癌も無く、
無事に家に帰ることができた。

②新しきパートナー
運命のバレンタインデー。
見事に結ばれたわけで・・・・

③仕事
転勤して半年、だいぶん本気で取り組めうようになって
仕事もうまく回り始めた。

正直転勤早々は仕事に集中できないほどの
落ち着いていなかったから。
今はパートナーもいるし、
その子のおかげで頑張れる自分もいる。

正直、落ち着いていますね。

少し考えれば、
何もかも変ってしまったってのが正直な所。
住む環境も変われば、
身の回りの人間関係も一新している。

ではこの流れはどこから生じたのかを
考えたことがある。

はっきりとわかっているのは、
流れが変わったのは治療を始めた所は明確だ。

しかし、なぜ治療を始める必要があったかを考えると、
それは私がC型肝炎を持っていたからだ。
・・・と考えるとこの流れは私の産まれたときから
生じることになる。

って結局当たり前のことなんだけどさ♪

私は母からこのC型を受け継いでとてもうれしく思っているし、
母には感謝している。

そして忘れてはならないのは父の存在だ。

今は・・・私は父に感謝している。

つまりこの体に産んでくれた両親に非常に感謝している。

両親ともども自分を犠牲にまでして私に教えてくれた。
なにを?って言われるかもしれないがそれはその時によって様々
に模様を変える。
どういうことか?

過去を振り返ってそこから学び取ることは当たり前だ。
ただ、振り返るときによって学び取る事柄が異なる。
同じ過去を振り返っても学び取ることが異なってくるのだ。

C型肝炎と戦った経験と、両親が離婚した経験。

忘れること無き記憶だし、その時々で学び得ることも違う。

すなわち、私は今の段階では全体を通して

"よかった"

と思っている。

不思議なものよね、人生ってさ。

新しき風。

2012年2月12日 第4章
どーも、しばらく来てなかったね。

ということはだいぶんおさまってきたということなのだが。。。
ではいくつか書こうとしよう

①福岡箱会
この流れの中で身に着いた「箱」という概念。
まだココだ明確に書いたことがなかったね。
いずれは書こうと思うのだが、少し簡単に。。。。

人に対して、怒り、憎しみといった負の感情を持った時
それは自分自身が箱に入り作られたフィルターによって事実と歪んだ
事実を見てしまうという概念。

つまり人間関係に支障が出るのは「箱」の存在という考え方だ。

その集まりが福岡で開催されることになった。
本だけでは学びとれないこの概念を見知らぬ人たちと集まって
熱く語るという勉強会。

正直4月に間に合わないと思っていた。
けど運よく2月に開催決定。

自分がとった判断がどういう風に歪んでいたのか。
それをしっかり見極めてきたいのだ。

②母の体
おもわしくない。
あの血を吐く惨劇の一歩手前ということで
来週手術を行う。
定期的に検査を受けており、
危なそうになっているなら手術で対処というながれ。
ただ今回は少し違う。
血便が出始めているのだ。
ってことで大腸検査をするようだ。大腸がんってのも
考えられる。
それに手術は相当体力を使う。
術後の姿は実は私しか見ていない。兄は忙しくその姿を見ていない。

苦しそうに息をし、唇、手は全部震えていた。
目は明かない、声かけても返ってこない。おそらく麻酔が効いているのだろう。
全身震えていた。
だから母も身構えている。
そりゃそうだ、本人が一番きついはずなのだから。

しかし、母は孫の小学生になるまで生きるという強い意志がある。
だから必ず母は帰ってくるっと信じている。
そもそも治療の過程において周りが信じなければ、
本人が信じるわけがない。であれば成功するはずがない。
頑張れ、母さん。

③新たな恋。
え?早すぎるって?
私も不思議でたまらない、このタイミングで新たな恋が始まるとはな。
出会ったのは1月2日。そこから毎日メールをしているし、
毎週会うようになった。
驚くべきことに、この子は
かつて光と呼んだ大学時代の好きだった子と、
元カノの中で私が好きだった部分を持ち合わせている人だ。
私が好きにあるのにそう時間はかからなかった。

ただ、ここではっきり言っておきたいのは
元カノの面影を追っているわけでもなく、
彼女が欲しいからすぐ好きになったということでもない。

なんだろう。
この子だったら私は我慢しなくていいと思えている。

さぁーどうなるこの流れ。
もうすぐバレンタイン。
「渡すものがある」といってバレンタインは会うことになっている。

ほんと不思議よね^^;
母が大変な時な必ず私が兄の恋話が動き始めるってのはさ。


前回は負けるという概念を掘り下げたが、
今日は勝つという概念について書いてみたい。

とある人からの言葉だった。
「負けない方法より勝つための方法を探れ」

ここ最近、
「負けないためには」
「今度は絶対負けない」
「負けるわけにはいかない」
という表現を使っていた。

だが、違う表現に
「勝つためには」
「今度は絶対勝ちたい」
「勝たなければならない」
がある。

さぁどちらがいいと思う?
人それぞれだけど、私は勝ちとう言葉を使った方が
いい気がする。

勝つための方法。考えもしなかった。
次は勝ちたい!のだ。

まだまだ方法探しは続くよ。
今日は負けるという概念を考えてみた。
「治療に負けた」
「病気に負けた」
といえば少しは美談になるかもしれないと思って
言ってるんだけだ。

負ける。
野球でいえばホームベースを踏んだ回数がどちらが少ないかだ。
サッカーでいえばゴールネットを揺らした回数がどちらが少ないかだ。
マラソンでいえば走った時間。
つまり、

大 Vs 小
早 Vs 遅
多 Vs 少

ということになる。どちらが勝つに当てはまるかはその種目次第。
では今回私が負けたという表現を使っているのはどう意味だろう。

保 Vs 壊

これに尽きる。元カノと関係を保つことができていれば勝ち。
今は壊れた。だから負けだと言っている。

では壊れたということはどういうことか。
それは別れることだ。

では別れることを最初に選択したのは誰か。
それは、まぎれもなく私だ。

ではなぜ別れることを選択したのか。
それは元カノの行動があまりにも父親がとった行動に
そっくりだと感じたからだ。

離婚した事を私は負けだと思っている。
だが離婚を経験した私は「もう自分は負けない」と思っていた。
信じていた。いや過信しすぎていた。

別れることが負けだとわかっていながら
当時元カノを許すことができず、別れるという選択肢をとった。

言いなおそう。
別れることが負けだとわかっていながら、
当時元カノを許すことができず、負けるという選択肢をとった。

ふっ。
病気に負けたのではなく、治療に負けたのでもない。
負けるという選択肢をとったのは・・・自分だったのだ。
そう考えたら笑えたね。やっぱり問題は自分にあったのだと。

敗因が分かれば対処しようがある。
今日の考えは自分をえぐられた気がしたがなんだが一本の線につながった。
うん、今日はいい日だったよ。

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